10月24日(水)「怒りの葡萄」

怒りの葡萄」('40・米)監督:ジョン・フォ-ド 原作:ジョン・スタインベック 脚本:ナタリ−・ジョンソン 撮影:グレッグ・ト−ランド 音楽:アルフレッド・ニュ-マン 出演:ヘンリ−・フォンダ/ジェ−ン・ダ−ウェル/ジョン・キャラダイン
★文豪J・スタインベックのピュリツア−賞受賞小説の映画化。仮出所で刑務所を出て4年ぶりに故郷のオクラホマの農場に帰ってきたトム・ジョ−ド(フォンダ)。そこで彼が見たのは、荒れ果てた大地と飢えに苦しむ農民たちの姿だった。久しぶりに再会したトムの家族も同じ有様だったが、母親のマア(ダ−ウェル)のたくましさのおかげで貧しいながらも元気でいた。だが、土地はすでに人手にわたっていた。そこでジョ−ド一家はオンボロ車でカリフォルニアに向かう。だが希望の土地カリフォルニアで彼らを待っていたのは…。凶作と資本主義の歪みのなかでたくましく生きるアメリカ農民の姿を描いた社会派ドラマの名作。(ぴあ・CINEMA CLUB)

◎ジョ−ド一家と同行した元説教師のケ−シ−(キャラダイン)は仮出所のトムを庇ってシェリフに捕まる。桃摘みの農場でトムと再会したケ−シ−はストライキの指導者になっていた。そのケ−シ−が警防団に殺害され、トムはケ−シ−を殺害した男を殴り倒して追われる身となる。怪我をして逃げ帰ったトムは、労働条件についてのケ−シ−の予言が当たったことを知って、母親のマアに“ケ−シ−、説教師だが、はっきり見えていたんだ。光のようだ、彼は俺に目を与えてくれた”と語る。そして追いつめられて家族と別れなければならなくなって、母に語る。“ずっと考えていた、ケ−シ−の事を、彼の言った事、した事、そして死に様、目に焼き付いている…。民衆が団結して声を一つにすることができればと”“そんなことをしたらケ−シ−の二の舞いだよ”“遅かれ早かれ俺はつかまるだろう。その時まで…、俺はいずれにせよ無法者だ、そんな俺でもできる事があるはずなんだ。探し求める過程で見つけた不正を正していきたいんだ…”“この先どうなるか、お前が痛めつけられ殺されても私には知る由もない”“ケ−シ−が言っていた、人間の魂は大きい魂の一部なんだと、その大きい魂は皆につながっている。そして俺は暗闇にもどこにでもいて母さんの見える所にいるよ。暴動があり餓える人がいたら俺はそこにいる(I will be there)。警察が暴行を加えている時俺はそこにいる。怒りで叫ぶ人の間にもいる。夕食が用意され幸せな子供達の所にも俺はいる、人々が自分で育てたものを食べ自分で建てた家に住む時も…”“よくわからないわ”“俺もさ、だが、ずっと考えていたんだ”

“よくわからないわ”とトムに答えたマアもまた、トムを見送り家族と共に再び仕事を求めて出発する車の中で、“心配なのかい?”とトムの弟に聞かれたマアは“もう心配なんかあるもんか、昔はあったけど、昔はビクビクしてた事もあった、何もかもが敵に見えて味方もいない気がしてた。救いの手も無く迷子のようで怖かった事もある。(中略)金持ちは子供が死んだらその代かぎり、私達は違うしそんなに弱々しくない。たやすく潰されたりしない、生き続けるの、私達は民衆(ピ−プル)だから…”
貧しさゆえに盲目の反抗心だけを抱えて生きてきたトムが、ケ−シ−という信仰を失った元説教師によって光(現実を視る力)を与えられる。そのトムの言葉によって母のマアにも光が見えるようになる。ここには考えるということの原風景がある。呑気呆亭