6月9日(土)「一人息子」

「一人息子」('36・松竹大船)監督:小津安二郎 脚本:池田忠雄/荒田正男 撮影:杉本正二郎 美術:浜田辰雄 音楽:伊藤宣二 録音:茂原英雄 出演:飯田蝶子/日守新一/坪内美子/吉川満子/突貫小僧/笠智衆
★日本最初のト−キ−作品は、'31年に五所平之助が監督した「マダムと女房」であった。その作品に続き、多くの監督がト−キ−に取り組み、試行錯誤しながら、新しい映画の可能性を切り拓いていったのだが、小津安二郎はそんな時勢にもサイレント作品を撮り続けていた。その理由のひとつに、小津が組んでいたカメラマン・茂原英雄の“茂原式フォ−ン”の完成を待っていたことがあるが、「マダムと女房」に遅れること5年、やっと小津はト−キ−と取り組む。それがこの作品である。
信州の田舎でたったひとりの息子を進学させるために田畑を売り、身をけずって働いた母が、年老いてから東京の息子に会いにやってくる。だが、大学を出て出世していると思っていた息子は夜学の教師にすぎず、妻子とともに貧しい暮らしを送りながら将来への野心も失っていた…。(ぴあ・CINEMA CLUB)

◎野心は無くしても人に対する優しさは失っていなかった息子に、一抹の寂しさは残しながらも心穏やかに信州に帰っていった母親を見送って帰宅した息子が、溜息を付きつつ哺乳瓶をじっと眺めて脱いだ帽子を放る。投げ出された帽子はまるで息子の心を現すかのように畳の上をころころと転がってひしゃげた形なりに停止する。これは異様なショットである。そして、ふと、鏡台に置かれた折り畳まれた紙片が息子の目を引く。手に取って見るとそこにはすべてひらがなで「これで まごに なにか かって やってください 母」と書かれており、紙幣が二枚挟んであったのだった。
息子は母をもてなすために夜学の同僚から利子つきで十円借り、それでも足りなくて妻が着物を質に入れて金を都合するのだが、その金を馬に蹴られて大怪我をした近所の子供の入院費に差し出したのだったが、その一部始終を承知していた母が置いて行ったのは、恐らく十円札が二枚であった。妻は“あなたはいいお母さんをお持ちです”といって泣くのであった。
プロロ−グに流れていた「オ−ルドブラックジョ−」が、もう現役の紡績婦として働けなくなり、宿舎の賄い婦となった老いた母が、工場の陽だまりに背を丸めてうずくまる姿に重なって流れて行く。呑気呆亭