7月13日(土)「欲望という名の電車」

欲望という名の電車」('51・米)監督:エリア・カザン 原作・脚本:テネシ−・ウィリアムズ 撮影:ハリ−・ストラドリング 出演:ヴィヴィアン・リ−/マ−ロン・ブランド/キム・ハンタ−/カ−ル・マルデン
★貴婦人ぶってはいるが、父を亡くし家を失った故郷で放蕩の限りを尽くし、未成年誘惑のかどで追われるようにして都会に出た、もう若くはないアル中の南部女ブランチ・デュボワを、曲がりなりにもスカーレット・オハラだった女の演ずるということがハリウッドにもたらした衝撃、推して知るべし。V・リーは「風と共に去りぬ」に次ぐ第2のピークを本作で迎え、以後、映画ではこれに匹敵する演技を残さず死んでいった。一人のスター女優を燃やし尽くしてしまった、この作品の持つ“熱”……。彼女が訪ねるニューオリンズの妹(K・ハンター)、そして、その浅ましい夫(M・ブランド)は、救いを求めて彷徨する魂に手痛いしっぺ返しを喰らわす。ブランチの気位の高さに魅かれていた男ミッチ(K・マルデン)も彼女の真実を知り、露骨に肉体を求めてくる。ラスト、義弟の逞しい“男”に屈してしまう女の性……。狂気の他に彼女の逃げ場所はないのだ。南部の湿り気が暗い白黒の画面からむせるように伝わってくる、T・ウィリアムズ戯曲、会心の映画化作品。当然のごとくリーはオスカー主演賞に輝き、ハンターは助演賞を獲得した。<allcinema>

◎2007年11月21日、新宿大久保のグローブ座にて篠井英介女形として主演のブランチを演ずる、テネシー・ウイリアムズ作『欲望という名の電車』を観た。観終えての感想会で、或る女性が、凄まじい孤独の裡にあるブランチにとって、義弟スタンリー・コワルスキーのレイプさえもその孤独を癒す救いとなったのではないかと発言した。これはボクにとって予期せぬ発言であり、衝撃的な指摘だった。
没落した旧家の女ブランチは零落して身を寄せた妹ステラの家で、彼女の最も苦手なタイプ、労働者階級出身の粗野で徹底的なリアリストである、スタンリーに出会う。
ブランチの絶望的な孤独は、若年の頃ままごとの延長のような形で結ばれた美しい若き夫を、己の心ない愚かな仕打ちで自死に追いやったとする罪の意識のために、絶えず己を罰し続けずにはおれぬ自虐的な堂々巡りの裡にある故なのだが、しかも彼女はまた、スタンリーやその妻で妹のステラと同様、生きるという錬獄の堂々巡り、「欲望という名の電車」にも乗り続けなくてはならない。
このDNAのそれにも似た行き違う二重らせんの堂々巡りを生きるために、彼女は必然、俳優足らざるを得ない。その仮面を引き剥がそうとするリアリスト、スタンリーとの闘争はブランチの発狂という悲劇的な結末に到る。
スタンリ−てやつは酷でえヤツだな、というのがボクの素朴な感想だった。そこで冒頭の女性の発言である。衝撃を受けて、この劇全体を思い返して見ると、まったく違ったモノが見えて来たのだ。
ブランチはスタンリーの欲望を察知していた、そして己の欲望をもまた。それ故に憎しみ合う二人の闘争は遂に愛の相貌を帯びる。
篠井英介はコトの前のブランチの衣裳を総て暗色で統一し、コトの後、発狂して医師に迎えられるブランチの衣裳を、一変白色(ブランシュ)に変えることで鮮やかに形象化して見せていたのだった。
ブランチは行き違う二重らせんの呪縛から漸く解き放たれ、発狂という悲劇的な形ではあるが「欲望という名の電車」を降りることが出来たのである。
かつては炎の女スカ−レット・オハラであったヴィヴィアン・リーが、こんな神経症の女ブランチを演じるのか、そして、それが真に迫る熱演であったがためと、その演技をエリア・カザンが余りにも冷酷な眼差しで映し撮ったがために見るのが辛い映画になった。上記の篠井英介の演出にはブランチに対する同情が有ったのだが、カザンのそれには優しさが感じられず、したがってスタンリ−の行為は単なるレイプでしかなくなって、映画を観ることの歓びを感ずることの出来ない作品となってしまった。呑気呆亭