1月19日(土)「男はつらいよ寅次郎恋歌」

男はつらいよ寅次郎恋歌」('71・松竹))監督・脚本:山田洋次 脚本:朝間義隆 撮影:高羽哲夫 音楽:山本直純 出演:渥美清/倍賞千恵子/前田吟/森川信/三崎千恵子/池内淳子/志村喬
★さくらの夫・博(前田)の父親(志村)である老哲学者から“一家の団らんこそ真の幸福である”と諭され、一念発起して故郷柴又へ戻ってきた寅次郎だが、いつものように柴又帝釈天脇に開店した喫茶店の未亡人ママ(池内)にまいってしまう。引っ込み思案な彼女の息子を励ましたことが縁となり彼女と親しくなるのだが…。(ぴあ・CINEMA CLUB)

◎この「男はつらいよ」という48本も続いたシリ−ズ映画について、独断を承知で言わせてもらえば、このシリ−ズはこの第八作の「寅次郎恋歌」までとそれ以降の作品に分けられると思う。この第八作以降の作品はマドンナとロケ地によって目先を変えただけの“当るから作った”というプログラムピクチャ−でしかない。実際、渥美清の衰弱が目に付き始めた後半の作をワタクシはほとんど見ていない。天皇のように硬直化したキャラクタ−になってしまった「フ−テンの寅」を見るに忍びなかったからだ。
特に第八作までとしたのは、この作がシリ−ズ中白眉の傑作であるからというだけではなく、寅を鏡に映した反転像とも思える叔父の竜造、原作者の洒落ではあるが文字通り「竜虎」の間柄である「おいちゃん」のキャラクタ−を定位した森川信さんがこの作完成後に亡くなってしまったからでもある。
さて、この第八作「寅次郎恋歌」は、第二作の「続・男はつらいよ」が長谷川伸の「瞼の母」を下敷きにしているとすれば、これは同じ長谷川伸原作、加藤泰監督の「沓掛時次郎・遊侠一匹」('66・東映京都)への山田洋次のオマ−ジュであると言える。渥美清はこの作品に原作にはない「身延の浅吉」という三ン下やくざで出演している。始まって20分ほどで、一宿一飯の義理のために単身喧嘩相手の所に殴り込んで、寄ってたかってなぶり殺しに合うという、本筋とは余り関係のないように見える役柄なのだが、主演の沓掛時次郎・中村錦之助と、宿場女郎の三原葉子との絡みが実に良かった。この“ソロバンのはじけねぇ”弟分をむざむざ死なしてしまった中村時次郎の屈託を抱えた旅は、何の恨みもない渡世人をこれまた一宿一飯の義理のために殺し、その女房お絹(池内淳子)と子供を連れての道行きとなる。その池内淳子がこの「寅次郎恋歌」では子連れの未亡人として柴又に現れ、寅次郎の憧憬の対象となるのである。
池内淳子、「けなげ」という形容がこれほどに当てはまる女優をワタクシは他に知らない。その「けなげ」さは「沓掛時次郎・遊侠一匹」と「寅次郎恋歌」をつなぐうつくしさとしてある。そのひとが柴又に現れる。これはおいちゃんおばちゃんでなくても事件だろう。なにしろ御前様でさえも振り返るほどのひとなのである。タコ社長はもとより柴又中の人々がいまや遅しと寅の来訪を待ち構える。さくらと博さえもどうやらそう見える。
転校して来て間がない貴子(池内)の息子との遭遇。父を亡くした息子に父性をと願う母の気持ち。母子二人で生きて行くために開店した喫茶店の借金に苦しむ貴子。知ってしまった貴子の苦境に“幾らかでもの手助けを”と、常になくせっぱ詰まった目付きでバイに励む寅。思うように稼げず、せめてもの気持ちにと「リンドウの花」の鉢植えを持って貴子の家を訪ねる寅。
“いいわねえ旅って、羨ましいわァ、あたしも一緒について行きたいな”なんて貴子との会話があって、貴子の女学生じみた空想につけ込むことの卑しさに気付いた寅次郎は、堅気と交わることの罪深さを悟って、恐らくもう帰らぬつもりの旅に出る。吹き付ける木枯らしに背を丸めて去って行く兄に、さくらも声を掛けることが出来ない。終幕、旅先でそんな寅に通り過ぎようとしたトラックから声が掛かる。この物語の冒頭で知り合った旅芸人たちが次の巡業先に向かう途次での出会いだった。
“ご一緒にいかがですか”と誘われて、晴々とした顔でトラックに乗り込み、荷台にしつらえられた炬燵にもぐり込んで、早速冗談で皆を沸かせる寅。大声で笑い合う旅人仲間を乗せて景色の向こうに去って行くトラック。エンド・マ−ク。呑気呆亭