10月3日(水)「有りがたうさん」

「有りがたうさん」('36・松竹大船)監督・脚本:清水宏 原作:川端康成 撮影:青木勇 出演:上原謙/桑野通子/築地まゆみ/二葉かほる
★“有りがたうさん”は南伊豆を廻る定期バスの青年運転手である。狭い道をバスが通れるようにと道をゆずってくれる土地の人たちに、のみならず牛や山羊や犬などの動物たちまでにも“有りがとう”と礼を言って走り去って行く青年に“有りがたうさん”というアダ名がついた。今日もバスには若い娘を売りにいく老母、水商売の女、怪しげな保険の勧誘員、金山かもわからぬ山で金を求めて採掘をし続ける男、狩猟家、行商人たちが乗っていた。そんな乗客たちと道往く人々の人生の点景が描かれる。川端康成の原稿用紙5枚ほどの短編を原作とした、まるでヌ−ベルバ−グの作品を見るごとき若々しくはつらつとした清水宏・珠玉の一編。(ぴあ・CINEMA CLUB)

◎登場人物たちには主人公の“有りがたうさん”を含めてみな固有名詞がない。曰く、黒襟の女、売られてゆく娘、その母、鬚の紳士、東京帰りの村人、その娘、茶店の婆さん…と。それは牛にも山羊にも犬にも本来は固有名詞がないのと同じことで、バスを運転する“有りがたうさん”は乗客にも擦れ違う人たちにも動物たちにも、そして恐らくは景色にも“有りがたうさん”と声をかけるのである。運転席の後ろの席に陣取った黒襟の女が彼に、どうしてそんなに一々声をかけるのと聞くと、彼は「街道渡世の仁義ですから」と答えるのだった。クラクションを鳴らして無言でバスを追い越して行く傲慢無礼な自家用車が、度々エンコして南伊豆の風景の中に孤立している姿が、無名の庶民が坦々と描かれる映像の流れの中にあって象徴的にコミカルであった。呑気呆亭