4月27日(土)「幕末太陽伝」

「幕末太陽伝」('57・日活)監督・脚本:川島雄三 脚本:田中啓一/今村昌平 撮影:高村倉太郎 音楽:黛敏郎 出演:フランキー堺/石原裕次郎左幸子/南田洋子/芦川いづみ/小林旭/小沢昭一/二谷英明/金子信雄/市村俊幸
★ 「さよならだけが人生さ」が口癖だったという川島監督の渾身の一作,見事である。川島39才の作品で,筋萎縮症を既に発症していた彼はその後6年しか生きられなかった。しかしこの時点では,彼自身は直ぐに死ぬとは思っていなかった。内容はここの解説でほぼ言い尽くされているので,追加したいことだけ。

 「居残り佐平次」は自らの才覚でうまく世を渡って行く。そもそも佐平次が居残ったのも,実は,ちゃっかり品川で肺病の転地療養と決め込んだため。しかし,最後に現れる「お見立て」の杢兵衛大尽は佐平次にとっては冥土からの使いで,佐平次のどんな才覚も通じない。佐平次はともかく杢兵衛大尽から逃げるしかない。「地獄サ落ちっド〜」。「俺はまだまだ生きるンでぇ」。これが,佐平次が墓場から逃げるラストシーンである。

 川島はしぶとい佐平次の姿に自分自身の理想を重ね合わせている。東北訛りの杢兵衛大尽も,やはり青森県下北出身の川島自身か彼の先祖を思わせる。「ご先祖様が迎えに来た」と考えてもよい。なぜなら,川島の病気は所謂(いわゆる)「血の病」=「(先祖が繰り返した)近親結婚に起因する病気」だからである(そのため彼は独身を通した)。「ご先祖様にウソついてはなンねぇ!」子供が言い聞かされる言葉である。それなら,杢兵衛大尽にウソが通用しないことも納得がいく。ラストの墓場は,史実に従えば,品川には遊女の投げ込み寺として海蔵寺があるので,その墓場ということになるだろうが,川島にとってのイメージは「恐山」である。「さよならだけが人生さ」と他人には達観したように見せた川島だが,どうしてどうして自分自身はしぶとく生きる気でいる。

 このラストシーン,川島のアイデアでは,佐平次に撮影セットや撮影所を駆け抜けさせ,佐平次を現在と交錯させるはずだった。このアイディアは,当時は全く理解が得られず,川島が折れる形で今見るラストシーンになった。着物を着て佇(たたず)む主人公の周りの風景が,次第に昔の風景から現在の風景に変わる,何ていうシーンはよくある。川島はそうではなく,多分,佐平次が現在の風景に逃げ込むように描きたかったのだろう。佐平次が逃げ出し,撮影セットを観客にばらし,撮影所を抜け出し,車の行き交う現在の品川を駆け抜けたら,オープニングの現在の品川のシーンは単なる説明ではなくなる。そして,この作品は「幕末滑稽噺」ではなく「現代コメディ」になったはずであるが……。どんな作品も時代の申し子である。撮影風景を観客にばらす川島のアイディアは,四半世紀(25年)後の「蒲田行進曲(1982)」でやっと結実する(だが,その意図するところは全く違っている)。

 太陽族であるはずの裕次郎が,フランキー堺に完全に喰われている。「太陽」というタイトルは川島が自ら付けたもので,映画会社は太陽族が社会問題化していたので難色を示したという。個人的には,「幕末時代劇〜太陽族裕次郎演じる高杉晋作」という触れ込みで前評判を高め,映画会社に多額の資金を出させようとした川島の計略(佐平次ばりの才覚)だったと思っている。川島は太陽族とは無縁の幕末コメディを作り上げた。佐平次が浴衣や羽織を「ふわっ」とはおる仕草は「美技」としか言いようがない。川島がフランキー堺で「写楽」を撮る約束をしていたというエピソードは有名。〈allcinema=stingre@y〉

◎「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」そして放蕩者の若旦那と孝行娘とバクチ好きの大工の親爺という設定を借りて、川島と今村昌平田中啓一は練りに練った脚本を創り上げた。その見事な脚本にフランキー堺という鬼才を得て、脇をこれでもかと言うほどの芸達者で囲んで、幕末という何が起こっても不思議でない時代の品川宿に痛快無類の川島ワ−ルドを幻出させ、ラストの蜻蛉返りでニヤリと笑って見せようとした川島の意図は、残念ながら時代の理解を得られなかったと聞くが、それなしでも充分に楽しめる快作である。呑気呆亭